黒い弁慶に血の匂い・・・


 2002年 6月 2日、14日 歌舞伎座 昼の部


 下に布団のよな分厚な着付けで、その上に黒の大紋、長袴、巨大な爆発パンキッシュ頭に、
くくりつけたよな烏帽子の弁慶。花道をのっしのっしと。顔に隈どりがあって、手から腕に
も血管隈があって、荒事の拵えなんですね。でかい・・・本舞台にきて、段上の真ん中にで
んっと。でかい・・・
まず、目に見える物理的な大きさに度肝をぬかれる。

   陰もない明るい舞台面が光と闇の世界に見える。一言で印象を言えば・・・ ギリシア悲劇のようだ。(ギリシア悲劇の定義は曖昧。) まず、弁慶の顔の仮面性。人間離れした顔が苦悩、苦痛、悲哀、諦観、慈悲、恋慕、追憶、 の表情を見せる。そして、どこまでも孤独。まったき孤独。 最初のうちは、大きさに目を奪われる。その奇抜な姿に。進むうちに、どこに自分がいる のか不確かになる。この悲劇を、ただ“見る”というだけの存在になってしまう。 共感して悲しむというゆとりをくれない。
 義経の妻、卿の君を殺せとの鎌倉殿(頼朝)からの命を受け、やってくる弁慶。その姿は 超人的である。死の使者。人間の喜怒哀楽を超越したような顔。その記号性。 それとは正反対に、“言葉”をしゃべる弁慶は、純粋に人間の感情のエキスを迸らせる。 苦悩を抱きながらも、なすべきことをなさねばならぬ。という意思と。そして、結果的に 自分の娘を殺すことになる。過去に、たった一度、契っただけの女との間に生まれた我が娘。 時間の空間から偶然のような必然としてこの世に存在した娘。  会って、顔を見、言葉を交わしては、殺せなくなると、背中から刺し殺したその娘。 それは“運命”だ。運命に囚われ、運命に弄ばれ、運命に従うしかない父。
 そして、体は知っているのに、見たことのない女。母。時空からこぼれて、ただ、殺される ための娘を産んだ女。歌舞伎舞台の陰のない明るい舞台面に、赤黒い闇を感じる。 刺し殺されても、血のりは、おろか、血に模した紅絹裏さえないのに、その傷口が感じられる。 血の匂いがする。 もがくことも、反駁することもありえない、それは運命という力だ。  まだ、少年少女といっていいほどの年頃に、それは、まったく“てんごう”に結ばれた、 男女の運命の悲劇だ。悲劇でいて、グロテスクな物語だ。  お互いを認め合ったときの女の喜びと恥じらいとエロティックな回想と、男には、含羞と 諦念と愛情と哀しみと、空虚がある。悪夢のような運命の力に圧倒され、追い詰められた ような気持ちになる。逃げ場のない感覚が体を包む。弁慶自身が、その運命というグロテ スクな神とも悪魔とも見える。心には人間を残して。  ついに、息あるうちには、見ることのなかった運命としての娘を見やるとき、弁慶の心の うちはどうだったのか?すでに、心は麻痺して、娘を見ているという感覚の自然な模倣だ けがそこにあったのか?そして、首ばかりの娘を抱えて、去っていくとき、その布ごしの 首に向ける、情愛と哀しみの表情は、何なのか?答えというカタルシスはなく、混沌のま まに去っていく。それが、人間の人生だとでもいうように。
 ただ、泣けるだけの悲劇からは、遠い。混乱と血の匂いの錯覚を残したまま観客として の自分は取り残される。かろうじて、弁慶が去っていくときの、こころもち、丸めた背中の、 ここだけは、人間の小ささに戻ったような、その姿に、救われるような気はするけれども。  それが人生なのかもしれない。理由もなく、解答もなく、推測不可の。幸せも不幸も、 天に存在するといわれているものの気紛れでしかないものだと。  心を揺さぶられることが感動ならば、間違いなく感動したのだと思う。それが、娯楽や 気晴らしや、快楽とはまったく別物でも。心を揺さぶりながら、おいそれとは、安楽には してくれない。それが、吉右衛門の魅力の神髄であるかもしれない。
   ↑なんてね〜。わけわからんちーん。でも、そーいう混沌とした気持ちにさせるのよねぇ。 でさ、1時間15分くらいよ。現実の時間の上演時間は。ああた、その1時間15分で…  くったり、けったり、きゅううう〜〜〜。 めりめりに疲れます。帰り道、コーフンしながらも、目は血走り、首、肩はコリコリ、 足下はフラフラです。でも、またまた、疲労しにうかがいますわよ〜ん。複雑屈折きんぐおぶ苦悩 なお方に惚れた醍醐味。ゆめおろそかにはできません。  と、あの振り袖の片しずつね、あれって、おまじないみたいなもんかな?中国のはんかいさん とかいう、すんごい勇猛な武人がいたんだとさ、で、その、はんかいさんは、母の小袖を身につ けて戦場にでました。すると、全然、やられません。その故事にならって、弁慶母が、みずから、 縫い付けてくれた。(思議超訳ヒアリング)ほいで、鬼若丸と呼ばれた、稚児寺小姓のときに、 暗闇で(たぶん)思わず、できてまった、おわささんが、その片袖をちぎったんだ?それとも、 暗闇の中で鬼若くんが、顔もわかんないけど、やっちゃった記念に(おっげひーん。ごめん) ちぎってあげたのかしらん?ま、その片袖ずつを身につけてたために、「あ、あの時の」って わかる小道具みたいなもんかな?しっかし、肩ぬぎして、びょんとだした、弁慶さんの振り袖 長いよね〜。つーか、でかいよね〜。何もかもジャンボだよね〜。と、つぶやきつつ。 と、まだまだ。しっかしさー、この弁慶さん、とんでもないよねー。よく考えると。言うこと 無茶苦茶だよねー、やってることも。いっくら、義経のためとは言っても。だから、あーいう 人間離れした顔と拵えなのかなー。っつーか、この芝居って、実は、勇猛果敢で忠臣で、しかも すんげー強い、超人的な弁慶が、実は、たった一度だけ契った女との間の娘を殺さなきゃいけな かった哀れさを、そのちょーじん的な姿との対比で、おとぎ話のよな泣ける話にして見せたかった だけのもんじゃないかなー?それをここまで、複雑屈折に見せてしまえる吉さまってすんごいよね。 それが、歌舞伎の弁慶上使であるかどうかはともかくも。っつーか、同じ演目で、動きも台詞も 照明も装置も(ほとんど)同じでも、演じる役者によって、全然違うものになってしまう。 ってのもありだよね?でも、弁慶上使って、ナマで観たの吉さまのが初めてだけど。  単純に考えて、拵えはばりばり荒事じゃん?ほんで、ここまで複雑屈折苦悩混沌でも、いいの? いいっす。アタシは許す。
 と、14日の観劇日には、弁慶さんの最初の台詞場で、地震が。体感的には二度。 んもー、いいわよ、物語り世界の吉さまの姿を見、声を聞きながらなら、そのまま、 息絶えても悔いなし。と、愛情完全復活を実感した自分だけの記念日になったのでした。