その笑いの影に〜一條大蔵譚
11月27日 松竹座 夜の部 今年最後の吉さま舞台。初めての松竹座。今年二度目の「のぞみ」に乗る女。 大阪は遠かった。ギックリ腰あがりの我が身にこたえました。遠征の強者も多いこの頃、体力無し な自分を反省。往復5時間プラス観劇時間4時間。背中まで痛い・・・ そんなことは、さておき。今年の中村会ではカットされていた「檜垣」ありの「一條大蔵譚」を 主たるお目当てに、観劇してまいりました。むむ・・・4月に「奥殿」のみ観たときも凛々しく、 また、台詞の素晴らしさ、ぶっかえり・・等々、感動して観ていたのですが、いやー、一條大蔵譚 を上演するなら「檜垣」つけなきゃダメーーー!!ほんま。 本心は源氏に心寄せながら、あやしまれぬため、生き延びるため、二十年来の作り阿呆・・を装う 一條大蔵長成卿。清盛から下げ渡された、常盤御前との祝言の席で、狂言舞鑑賞中。常盤御前は急な 病で欠席。(仮病よね?)狂言舞の催しも終わり、門から出てくる大蔵卿。 いやー、歩く巨大大福餅ー。ちょっと下がり目、麿眉、お歯黒メイク、幼児がヨチヨチ歩きしてい るようなその歩み。その台詞のたれたれした味わい。か、か、可愛い・・・館に入り込み常盤御前の 本心を探ろうと待ちかまえている、お京と鬼次郎夫婦。(鬼次郎は茶店に隠れている)このお京を女 芸者として召し抱える場面。お京に話しかける仕草、鳴瀬にたしなめられてのやりとり。たまらない 可愛さです。しかし、私には花道引っ込みの鬼次郎を見て、「ハッ!」となり、扇で顔を隠す・・・ という檜垣では必ず、着目される場面がどーもはっきりわからなかった。(^^; しかし、可愛くて役者としての愛嬌と技巧だけであるならば、こんな気持ちにはならない。吉さま 舞台を拝見するたびにこの気持ちは何だろう?と考えてみる。「感動」と一言で表現できるものでは ない気がする。「表現」なぞできなくても、その度ごとに素直に心震わせていれば良し。とも思う。 劇評家でもないのだし。でも、何度も舞台を拝見するうちに、この気持ちは何だろう?私をこんなに 惹きつけるものって・・・という自分への問いかけが・・・ で、こじつけかもしれないけれど、吉さまの「孤独」が私をこんなにも惹きつけるもの。という気がする。 もちろん、芝居に関して、熱心であるし、研究も探求もギリギリまでなさっているだろうし、ましてや 演技の質は(おこがましい言い方だが)けっして、クールではないと思われる吉さまの、(ご本人も 「熱を伝える芝居がしたい」とおっしゃっているし。)舞台の孤独。それは極限状態に置かれた人間の 覚醒というか、覚悟というか、大蔵卿の境遇は彼にとって極限であろうし、その中で作り阿呆を続ける 道を選択して、後悔も恨みもなく、自己憐憫もないはず。そして、もしも平家が滅びて、作り阿呆をす る必要がなくなっても吉さま=大蔵卿は、作り阿呆をやめない気がする。(吉さま以外の大蔵卿を観た ことはないが)後悔でなく、恨みでなく、自己憐憫でもなく、からくりを全部知ってしまったというよ うな諦念と傍観の覚醒。 「佐倉義民伝」の「直訴の場」で、直訴をとにもかくにもなしとげて、お縄にかかる時の宗吾の表情に も私はそれを感じた。成し遂げたことへの満足感も、後悔も両方ともない感覚。感情が透明になってし まったような。人間に成し遂げなければならない「量」があるとして、その分の量は全て満たされ、その あとの感情に喜怒哀楽の色があるわけがない。 人間の極限の状態のひとつの究極がある気がして、それが私の心を震わせるのだと思う。悲しい色に 染まっていない哀しみ。笑っていながら幸福ではない人間。正しいことをしたからと言って幸福にはな れない人間。愛する者がいても一人である。という真実。日常は、そんなことを思い浮かべたりもしな いのに、吉さま舞台を拝見すると心の底にあるものに触れられてしまい骨抜きの状態になってしまうのだ。 むろん、お役によっても違うのだが、私の心の琴線に触れるのはそういうお役なのである。 だから、その感動はいつもちょっぴり切ない。でも、それらのことを乗り越えて、「大丈夫だよ」という 声が聞こえそうに大きくて優しい舞台なので追いかけずにはいられない・・・・・人間とは・・・・・ 嗚呼。。。ちょっとおセンチ観劇感想でしたっ! ♪寝ても醒めても表紙へ♪