●佐野次郎左衛門『籠釣瓶花街酔醒』:
先代吉右衛門・現歌右衛門さんのコンビで当たりを取るまであまり陽の目を見ていなかったというのが 不思議なくらい、この役、人間の色々な面を描き出していると思うのです。 純真さ、劣等感、見栄、憧れ、羞恥、怒り、恨み、執念、・・。 美々しい武将をしても、こんな田舎の醜男をしてもぴたりとはまってしまうのが、 われらが吉右衛門丈のこれまた不思議な魅力です。
デフォルメされた演技の中に、雷に打たれたように一瞬にして現の夢の世界に引き込まれてしまった男の様子が顕らかな『見染め』。すべてがあまりに華やかで、それ故に後半の悲劇との対比が一層際立ちます。
「花魁、そりゃあんまりそでなかろうぜ」はつとに人口に膾炙した台詞で、頭でっかちに文句ばかりを先に知ってしまっていました。しかし丈の舞台を観て、単に名詞・名調子というのではなく、八ツ橋に手酷い言葉を浴びせられながら皆の手前何とか場を収めようとし、仲間に侮辱されては言われるがままにじっと耐え忍んでいた次郎左衛門が、血を振り絞るような思いでようやっと吐いた一言一句の連続なのだということが分かりました。
蛇足ながら、これに続く長台詞ももちろん素晴らしい聞きどころなのですが、同くらい胸を衝かれたのがこの場の終わり、おきつらに向かって「ありがとうございました。・・」と頭を下げながら、忍び切れずに泣き崩れるところ。
「この世の別れだ、呑んでくりゃれ」から急転するラスト、殺しに到るまでに突き詰められた執念の表出から一刀にしてそれを遂げた後の放心状態まで一気に持って行く息もつかせぬ運びは、ぞっとする凄さです。
●幡随院長兵衛『極付幡随長兵衛』:
吉右衛門丈の長兵衛を一言で言うなら、まさしく”男の中の男”。この人にならついて行きたいと思わせる男です。江戸一番の侠客の貫禄。
「名は幡随院の長兵衛でも仏になるなぁまぁだ早ぇ」のカッコよさ。
”われ一人に多人数の難儀は不憫と思へども”での瞬時の迷いとそれを振り払っての決意の面持ち、子分たちを説き伏せて「止めずと器用にやってくれ、よォ」と意志を語る目線がひどく男っぽい。お前はまだ子どもだから何も分かるまいがとは言いながら、「(成長しても)決してこんな商売しようと思うな。嬶ぁやがきに泣きを見せるな」と長松の背を何度も大きく叩いて言い聞かせるのは親子の語らいであると同時に、自分亡き後残される息子への、同じ男としての思いでもある。女房の前では懸命に強く見せようとするのに、無邪気な幼子の愛らしさには堪え切れずに抱きしめてしまうのも感動的。
湯殿での水野とのやり取り、「へえ、いかにも命は差し上げやしょう」からの台詞と表情は、男らしすぎて素晴らしすぎて胸が爆発しそうでモーダメッ!!っていうくらい!白い浴衣に漆黒の大童で豊かな肌を晒した姿の魅力的なことは無類です。
●井伊掃部守直弼『井伊大老』:
地味な芝居だが最高。
心を許した愛する女の慰めにさえ、(世の人に自分の気持ちは)「いやわからぬ。わかるものか」と 言葉をぶつけてしまったりもするほど、孤独な胸に深く抱かれた男の哀しみと苦しみ。 しかし誰に理解されなくとも、誰よりも理解して欲しいたった一人、誰よりも彼を知る真の妻が、 悲嘆に暮れる彼に気づかせてくれた。 人に鬼畜と呼ばれようとなすべきことをなし、すでにほど近い命の最後の日まで己が 信念に恥じぬよう生き、それを誇りとして石のごとく死ねばよいのだ、と。
お父様のご依頼に応じて雛の話を中心に書き下ろされた部分とのことですが、当たり役と言われた白鸚さんのを観ていない私には、今や吉右衛門丈以外にこの役をできる方がいるとは思われません。井伊直弼という人間がそこにいる。
またこれは、特に吉右衛門丈のファンではないという方のためにもイチ押しの役の一つ。もし観て損したと思ったら私がお金払います。
●河内山宗俊『天衣紛上野初花』:
一品親王の御使僧たるに相応しい気品が嫌味なく備わっているのに、見顕されたらひょいと素に戻ってそれもまた自然。気持ちがよくて、坊主の癖に(?)男っぽくて素敵。例えば源蔵や熊谷や盛綱等に分かるように、人の心の襞の表現に非常に秀でた方なのに、こういうカラッとした感じの太く直線的な役も素晴らしい。高度な技量を要する役でしょうのに、客の方にはしかめつらしい気負いを全然無用に見せてくれる。玄関先ばかりでなく、ダレがちという書院も緊張感が保たれていてワクワク。全編が見どころです。
●武部源蔵『菅原伝授手習鑑・寺子屋』:
吉右衛門丈のこの役を観ると、優れた義太夫狂言の持つ、語りと演技の融和が生み出す空気の密度の濃さといったものを思い知らされます。あれだけ渋く、抑えた行き方であの存在感と表現力。巧を極めた音遣いと低音の美声による台詞の妙は論を俟たぬことながら、刮目すべきは、ひたすら黙して座せる姿の並ぶもののない静謐な美しさ。
ついでに言うと、私は吉右衛門丈の着流し姿の美しさは日本一だと思っているので、それが堪能できるという点でもおいしい役(しかし本当にいいのか??ここまで趣味に走った評で・・)。首桶抱えて二重に片足を掛け、キッと戸浪を振り返った横顔と後ろ姿の麗しさはまさに絶品。
身体の切れのいい、角々のきっぱりした演技も丈の落とせない特長。幕切れ、手ぇ上げたりしてポーズつけてる松王より、下にいる源蔵の方がいい形だと思っているのは私だけ・・?