それは誰なのか?
2000年11月 3日 10日 11日 15日 吉例顔見世大歌舞伎 歌舞伎座 夜の部
11月 3日 楽しみにしていた逆櫓。ナマで見たことは一度だけある。絵としても声としても記憶に残っていない。伝統 文化放送での初代辰之助丈の逆櫓を録画し予習。この頃30代前半か?映像で見るだけでもいい役者だ。 吉さま以外の役者にあまり興味はないが存命ならば今現在の立ち役分布も違ったものになっていたかもと漠然 と思う。 目の前で観たはずなのに額どまんなか、というよりさかやき部分あたりにちょこんと描かれた傷で登場から 後を覚えていない。記憶が正しければ羽二重部分からはみだしてさえいない傷。思考が乱れる感情も乱れる。 記憶がとんでいながらショックだけが残った。自分でもわからない感情。逆櫓後、カブキチネット仲間2人と 会い、立ち話をし、自分の口から「ショックだった」ことを話したがそれもおぼろである。 夜半。“初代のやり方”にこだわり受け継ごうという吉さまのお考えは二代目として当然でもあり義務でも あり、そのお考えはファンにとってもわかるが気持ちの方が納得してくれない。初代のやり方だか何だか知ら ないが歌舞伎座の顔見世で実験はやめて欲しい。とも思い、表面的な傷くらいに気をとられて芝居そのものの 感想までぶっとんでしまった自分が情けなくもなる。
11月10日 初見より日にちもたち多少は冷静になった。と自分に言い聞かせ三階から観る。花道は切れるが花道きわで の姿は見える。薄水色の着付けに、肩衣を巻いた櫓をかつぎ登場。人よさげな大らかな大きな松右衛門である。 笑みこぼれる顔の目の消えてしまいそうな表情の華やかさと美しさとやわらぎ。前半は上々。緑に赤茶の格子 の着付けに槌松(実は駒若君)を傍らに上手の小部屋の障子が開く。座っていても大きい。物語りになる。 すばらしい科白である。素直に耳をかたむける。いい声で、情味のある聞き終えるのが惜しいような科白。 さて、傷。3日に観たときより大きくなっているような気がする。羽二重からはみだしてもいなかったよう な傷が羽二重をこえた地肌の額部分にもかかっているような。三階からでオペラグラスを使っていないので、 確信が持てない。
11月11日 昼夜通しで観る。夜は逆櫓まで。 鴛鴦の股野五郎、赤っ面に隈取り。美しくはないが姿はやはり大きい。悪者の好色な愛嬌が品よくある。振り も派手だ。踊りすすむにつれて玉の汗。動きからすると昼夜とも大変な役、踊りなので深く考えもせず目の前 の動きのカタルシスを楽しむ。花道も使う。数年前の国立劇場での藤間勘祖を偲ぶ会で観ているはずなのだが まるで記憶になかった。赤っ面の悪者ということしか覚えていなかった。肌脱ぎになり橙色の襦袢になると、 襟元、両肩、背中の真ん中部分に汗が染みている。顔はもちろん汗だらけ。不思議なことに地肌が紅潮するせ いなのか、赤っ面というより茶の勝った柿色のようだった顔がいい感じに素の顔を見せる。(素顔という意味 ではない。) 最前列下手寄りの真ん中席で観る逆櫓。やはり出からいい。大きくてゆったりとやわらかくも立派である。 梶原に呼ばれた内容を物語るところの愛嬌と上手さ。いまさらながら科白の巧みさに酔わされる。言葉のひと つひとつが全身へ快楽をもたらす。この松右衛門部分のかりそめの家族ながら、家族への情愛が豊かに感じら れる。後の顔に少し拵えをして(余分眉(正式名称がわからない)鼻脇にも濃い茶が入る)格子の着付けにな り、松右衛門から樋口へ見顕す。顔は樋口であり、心情は破綻なく、一個人としての情愛深く孝行心もある、 市井の人と、もののふの勇者で人間離れした英雄を描きわける。というより自然に融合させている。樋口次郎 兼光であると名乗ってからも家族の一員であるままの松右衛門でもある。戸口であたりを伺い「権四郎、頭が 高い。イヤサ、かしらがたかーい!」からの見顕しは超人的である。そして若君を殺さないと得心させたあと の「なんのぉ、たれがぁ、笑いましょうぞぉ・・」にはもののふでありながら、もののふでありつつもと言う べきか、情愛あふれる人間になる。 傷はやはり成長していた。地肌部分、左眉頭のぎりぎりまで一筋血がたれたように描かれていた。客席から 見ると右眉の眉頭に触れるか触れないかまで。立ち廻り。3日に観たときには段取りが目につき、とんぼをか えらせたりする順序、動きを確認しながら立ち廻りしているように感じたが、心躍る立ち廻りである。見得の ひとつひとつは立派で美しい。瞬間を切り取りたいような美しさがある。物見の松で枝を押しあげすさぶる見 得、捕り手をねめつけ樋口の次郎兼光なるわー!の見得も超人的でぞくぞくする。しかし、動きのさっそうさ というよりは、重々しい重厚な立ち廻りのように感じる。 傷を受け髪ざんばらに、権四郎に訴人されたとおよしに聞かされ「飼犬に手をかまれしかぁ」と嘆き、怒りな がら梶原がやってくると後ろにおよしをかばい、目まぜする。このあたり吉右衛門独特と思う。 「ととと言わずに、いとまごいをぉ・・」に万感の想いがにじむ。 観劇後の儚さは水の中にいながら、楽々と深呼吸をしているようである。
11月15日 なかばズル休みで午後までうだうだし、発作的に歌舞伎座へ。当日券で逆櫓を観る。最前列狙いだったが、 無かった。へ列の通路席ど真ん中あたりで観た。よく見える。まばたきも惜しむように見入りながら、ここに 座って吉右衛門を観ているという実感がない。座席の肘掛け部分の木の堅さを確かめる。私はここにいる。 のぼせているのに頭の芯が醒めている。一瞬一瞬が残酷にもぎとられていく、だからこそ大切なものとして 観る。科白を2カ所間違えたように思う。些末なことだ。役として間違えているのならそれでいい。 観終えてはかない。これが吉右衛門の伝えたいものかとも想像してみる。人間が人間である限り変えようもな い、現象としてではない人間の根本にあるもの。とでもいうか、そのはかなさ。一期は夢である。しかし、人 間と営みは続いていく。 吉右衛門が何を伝えたいのか自分自身の想像でしかわからない。また、そんなことを考える必要もないのかも しれない。二十世紀最後の吉右衛門の舞台だ。私は目を見開いて観ようと思う。傷はやはり眉頭ぎりぎりまで ひとすじたれた風に描かれていた。
2000年11月15日 記
寝ても醒めても表紙へ