彼にとっての宝物 そして彼女の現実
2000年 5月23日 松竹座 夜の部 1列14番
一年半ぶりの遠征。しかも初のお泊り遠征。ネットカブキチ仲間に羽田→伊丹空港→宿泊ホテ
ル→松竹座へのガイドメールを作成していただき、それをプリントアウトして握り締め、行って
まいりました。それでも、宿泊ホテルから松竹座へ行くのに地下鉄駅を間違えたり、劇場入る前
に近辺をぷらぷらしてましたら、わかんなくなってしまい、どこぞのお店のガードマンさんに
「すみません。。松竹座って、どっちでしたっけ?」と聞いてしまったのでした。あはは。
私にとっては今年上半期最後の吉さま舞台、やはり、吉さま舞台に外れはない。で、ちっと時間
が経過し、ちっとだけ冷静になって思うに、やっぱり次郎左衛門ですね。すごかったわ。。特に、
愛想づかしされての、縁切りから、最後の殺し場、観てる最中から、「す、すごい、、どーしよ
どーしよ、、」(どーもせんでいいんだけど(^^;)と血汐のたぎる想い、それでいてシンと切
ない。。そこまでやるか、、吉さま。。そこまで私を連れていくか。。今私の心に染み付いて
いるのは・・・・・・
“途方もない純粋さ”ですね。
人間の多面性といいますか、人間の負の感情の究極といいますか、白黒とはっきりはしない人間
の臨界点ともいう面の表現の上手さは、私、吉さまの右に出るものはない。とまで思っておりま
す。
冷静に緻密に練り上げられた演技プラン、元々の才能・素質に加え、長年培ってきた、努力・研
鑚と+ご自身の人生の積み重ね。というものが加味され、技術面でも表現者としても円熟の刻を
むかえている、吉さま。(こんなのご本人が聞いたら、照れてはぐらかし、否定なさるでしょう
けども)特にそのテクニカルな上手さはべらぼうなものですが、そのテクニカルを上回る“熱”
けして悪目立ちすることなく、ひとりよがりになることなく、役の人物像のままで観客がわに送
られるその“熱”の熱さ。この熱波に乗れてしまう吉さまファンには、たまらないところでしょう。
なんだかもー“あちらがわ”に連れていかれちゃいますから。で、観終えたあとの疲労感ときた
日には、情事のあとのけだるさ。のようでございます(なんてね)が、この“熱”好き嫌いが分
かれるかもしれませんね。
絶対に悪かろうはずがない。と確信していた吉さま=次郎左衛門 出てきた瞬間からの華やぎ、
見た目の美しさだけではない華やぎってあるなぁ。としみじみ。ごまの蝿さんに騙されそうに
なっても、怒るでなく慌てるでなくきょとんとした感じの鷹揚な人のよさ。長兵衛さんも、そ
んなとこが放っておけなかったんでしょう。田舎商人の人の良さ、純真さ、田舎者とはいえど、
手広く商売している大商人の貫禄(まだ、冒頭では弱いですけども)もの珍しげに治六とその
辺を見ているかあいらしさ。まぁ、上手い、上手い。煙管の扱いから、書き割りになってる店
先を覗いたり、立て提灯に書かれている、茶店の屋号を口の中で呟いたり、細かいです。
いかにもいい意味、芝居っぽく、それでいて自然。八ッ橋にぶつかって、首をあげつつ顔を見た
瞬間の、何かに打たれたような表情から、魂を抜かれてしまうほどの一目惚れの見染め。さ、そ
こで、その見染めの場面ですが、ビデオで観ていたのでは、その「魂を奪われる瞬間」というの
がいまひとつ実感できなかったので、じっくり見つめておりました。打たれたような表情から、
笑みこぼれつつ、口ぽかーんになっていき、固まっていくじろざさんの、この“笑い”がすごい。
これはもうテクニカルを超えたものですね。あの八ッ橋に見とれちゃうとこで客席から笑いが起
きますわね。最初のうちはそーなんですわ。それが、笑いつつ、口ぽかーんの表情の移り変わり
をじっと見詰めていくうちに、一目惚れとかいう生易しい人間の男女の色恋沙汰ではないような、
凄まじいものが伝わってきます。
好きとか抱きたいとかいう欲望とは違う次元の、上手くは言えないけれども。籠釣瓶では、八ッ
橋の「見染めの笑い」が注目されますが、私は、じろざさんのこの“笑い”で、魂奪われちゃっ
たのが、よくわかって満足。「宿へかえるが〜嫌になった〜」腕組みして八ッ橋の去っていった
花道の方を見据えて、ちょっとぎらぎら見つめてますわね。ここが唯一と言ってもいい、生の男
臭いところではないかな。
あの瞬間にじろざさんは、どこか踏み入れてはならない領域に堕ちた。のだなぁとゾクゾクしま
した。美は力ですねぇ。
今を全盛の吉原の、お職の、松の太夫の花魁八ッ橋。という形をした“美”という力に征服され
てしまった瞬間。八ッ橋の本名、わかりませんが、本名である生身の女に惚れたわけではない。
と私は受け取りました。それが後の悲劇につながるのかなぁと。
そして、一転、今紀文と呼ばれるほどの吉原通人お大尽になったじろざさんの、この無垢さは
すごいです。金離れはよし、田舎者の朴とつさとそーいう遊びの席に慣れてきた得意さがイヤミ
ではなく、自然に身についていて。これはまぁ、水商売業界ではイチバン好かれるお客さまです
わ。
が、ここがまた、大人の男の人の粋さ。というよりは、子供が得意になっているような無垢さ。
私ね、生で観る前は、コンプレックスは持っているけれども、いろいろと社会性の衣をまとった
大人の男の人が、吉原という遊びの上流社交場でメンツをつぶされたために、女を殺す。のかな
ぁ。と想像してたんですが、違いますわ。吉原で遊んでいるじろざさんは終始一貫イノセント。
八ッ橋以外には目もくれません。
かといって、他の朋輩衆やら、かむろから、太鼓持ち、茶屋の下々にまで何くれとなく気も遣う
いいお客さま。が、この八ッ橋ひとすじ。が、本来の女自身としての彼女を愛していたわけでは
なかったから、起きた悲劇。怖い。
と。じろざさんにとって、彼女は宝物だったのでしょう。美しい貴重な繊細なそれでいて圧倒的
な力をもつ宝物。偶像といってもいいかもしれませんね。何ものにも代え難い宝物だからこそ、
同業者にも見せびらかした。これは同業の男同士の見得の張り合いというよりは、ただただこの
宝物を見せたかったんでしょう。目撃して認識してくれる証言者がいないと現実であるとは思わ
れないから。
あるカブキチネット仲間が「いい人すぎて、人殺しそうにみえなかった」と私よりも先に松竹座
遠征へ行き、帰ってから言うてましたが、確かにいい人。もーいい人でいい人でいい人で。が、
これはあくまでも女神を崇める使徒のようなものですわ。
廓で遊んでいる。という一種欲望にぎらついた感じや、えばった感じが微塵もない。
人間の男の匂いが希薄かも。とまで感じられる。でも、このイノセントさが伝われば伝わるほど、
後の縁切りから殺し場の、憤怒、哀しみ、未練、もろもろの負の心根の発露がきわだつ。しかし、
いえば廓で起きた、花魁と客の痴情のもつれの果ての殺し。をここまで、ほぼ宗教的ともいえる
崇高さまでもっていっていいのか?それとも、こんな風に感じるのは私だけなのか?しかし、ま
だ吉さま舞台を見始めて、4年ちょっとだけども、娯楽の芝居見物としては、あまりにも観客が
わの心の奥の奥まで入ってくる吉さま舞台の感動。役から遊離することはないのに、揺さぶられ
すぎて、切なくて苦しいこの“熱”この熱ののことを考えつつ、、、、唐突ですが、、
つづく。。。
静かな感じにさみしくてねぇ、なんだかねぇ、毎年、吉さま舞台を拝見できない数カ月。っての
はあるのに、ちっとも慣れやしない。。毎年のように苦しい。。ほんとにねぇ。。なんだかねぇ。。
・・・・・
さみしーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!
どうもすんまそん。。。
2000年 5月27日 夜 記
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